書く女 3それは、中野蓉子にとって、予期せぬ別れ話だった。「君には俺なんかよりも、もっとふさわしい男がいると思うんだ」 いつも待ち合わせに使う、とあるシティホテルのラウンジでコーヒーを飲んでいるときに、不意に氏家が言った。 「俺じゃダメだ。俺は、君の望む幸せをあげることができない」 氏家は、あくまでも蓉子のためだということを強調していた。 通りかかったウェイトレスが、興味深そうな、そして少し憐れみをこめた視線を蓉子にちらりと投げていった。 蓉子は、長く美しいウェーブのかかった髪を無意識にかき上げながら、氏家の頭頂部を凝視していた。笑いたい気分のときは、磯野波平を思い出させる、その部分を見つめるに限る。 氏家が、浮気が原因で奥さんとけんかしたらしいということを、蓉子は知っていた。 どういう情報網があるのかはわからないが、女子行員の休憩時間は、そういう話題に事欠かなかった。 「奥様、だいぶんご立腹なんですか」 氏家は怒ったような目を向けたが、蓉子は気にしなかった。あくまでも美しく別れたいと願う氏家にとって、美恵子は思い出したくない存在なのだろう。それをわかっていて、わざとそちらに水を向けたのだ。 氏家は、苦りきった表情で言った。 「正直、参っているんだよ。昨日、君が電話なんかするから」 「電話なんて、していませんわ」 蓉子は少し驚いて、口に持っていきかけたカップをソーサーの上に置いた。 「……妻は、子供を連れて実家へ帰ってしまったよ」 蓉子の言葉を無視して、氏家は溜息をついた。この厄介な事態の責任は、すべて蓉子にあるとでも言いたげな表情だった。 「申し訳ないが、俺は家庭を壊す気はない。そのことは、最初から君にも言っておいたはずだ」 さんざん口説いてきて寝た直後を最初と言うのならね、と蓉子は心の中で呟いた。 「とにかく、これで終わりにしよう。君も大人なら、ここできれいに別れよう」 言いたいことだけ言うと、氏家は勘定書きとデパートの物らしい紙袋を手に立ち上がった。だが、蓉子は座ったままだった。 レジで金を払っている氏家の頭をぼんやり眺めながら、蓉子はコーヒーなどではなく、ドンペリでもオーダーしておけばよかったと思った。 住宅ローンや子供の教育費が大変だと、愚痴ばかり言う氏家がおごってくれたことなどほとんどなかった。手切れ金がコーヒー一杯というのでは、いくらなんでも安すぎる。 蓉子は、その冷めたコーヒーを静かに飲み干した。カップについた深紅の口紅を、親指の腹でふき取る。 傍目にはそうは見えないかもしれないが、蓉子は怒っていた。 勝手なことを言って離れていった氏家に対してではなく、自分自身に。 どうしてあんな男とつきあって、その上捨てられなければならないのだ。この、あたしが! 妻子持ちは後腐れがなくていい、なんて思っていたのが間違いだった。こんなにつまらない男に、貴重な時間を無駄にされていたなんて。蓉子は自分自身の男を見る目のなさに腹が立って仕方がないのであった。 やはりこんな日は、場所を変えてとことん飲むしかない。 蓉子は、バッグから携帯を取り出した。氏家のアドレスを消去し、友人の番号を押そうとして、指が止まった。 その友人は、結婚したばかりなのだ。突然飲みにいこうと誘っても、きっと無理だろう。 考えてみれば、ここ一・二年で蓉子の友人は、ほとんど結婚していた。夜遊びする相手もいない。そのせいもあって、心ならずも氏家とのつきあいが深くなってしまったのだ。 蓉子は、結婚なんてしたいと思ったことはなかった。夫や姑に仕えて苦労していた母の姿を、よく覚えていたからかもしれない。家族に隠れて、母はよく泣いていた。 蓉子は席を立った。とにかく、どこかに飲みにいかなくてはならない。 友人たちが結婚したとき、蓉子は、心からおめでとうとは、とても言えなかった。 彼女たちは、これから生きながら墓場に入っていくのだ。家という名の、家族という名の墓場。あたしは、生きながら埋められるのは真っ平だ。 誰にも束縛されない自由。それが蓉子にとって、なにより大切なことである。 それなのに、今すぐに自分の気持ちをぶちまける相手がいないのは、寂しいことに思えた。自由は、孤独と表裏一体のものなのかもしれない。年を取るにつれて、孤独のほうが強くなっていくようだ。そう思うと、気持ちが沈んでくる。 (そうだ、あいつなら) そのとき蓉子の頭に浮かんだのは、銀行の後輩の榊原だった。 榊原は蓉子の三年後輩で、新入行員の頃は蓉子が指導員として彼に仕事を教えていた。 硬派の爽やかなお坊ちゃんというタイプの榊原は、少々単純でお人好しという感は否めないが、誰からも好かれる好青年だった。今では部署が違うが、たまに飲みに行ったりする間柄である。 もっとも榊原は、蓉子に対して飲み友達以上の好意を抱いている節はあった。それを察して、蓉子はあまり彼との距離を縮めないようにしていた。 しかし、彼なら蓉子が頼めば、すぐにやってくるだろう。今日のような日に、一人でいるのは嫌だった。 蓉子は立ち止まると、携帯で榊原を呼び出した。案の定、彼は二つ返事で蓉子の誘いに応じた。 携帯をバッグにしまうと、蓉子は深呼吸した。憑き物が落ちたような気分だった。そして、ヒールを鳴らして約束の店へと向かって歩き始めた。 |